カイロプラクティックの歴史

カイロプラクティックの歴史

D.D. Palmer

Palmer1

カイロプラクティックの創始者 D.D.Palmerダニエル デビット パーマー) は、1845年カナダのオンタリオ州のポートベリーに生まれたアメリカ人です。

アイオア州のダベンポートで食料雑貨商を営んでいたパーマーは、当時流行していた骨相学や心霊研究が趣味で、1886年頃から磁気治療室を始めました。

カイロプラクティック誕生の瞬間

パーマーの治療室のあったビルに、17年間も耳が聞こえない、ハーヴィーリラードという守衛がいました。

ハーヴィーはある日、窮屈な姿勢で身体を曲げて作業をしていた時、背中に「ボキッ」という音が聞こえ、それ以来、聴力を失ってしまいました。ビルの前を通る幌馬車が、レンガ道を騒がしく通る音さえ聞こえない程の状態でした。

パーマーはハーヴィーに耳が聞こえなくなった時の事を尋ね、その時の状況に興味を持ち、ハーヴィーに「背中を検査してもいいか」と尋ね、ハーヴィーはそれを承諾しました。

Palmer2

ハーヴィーをベットにうつぶせにして背中を見ると、1ヶ所だけ骨が飛び出ている場所を発見しました。

パーマーは、ここが原因かもしれないと推論し、その飛び出た骨を両手で押し込んでみました。

手に力を入れ、3回ほど押した時その飛び出た骨は小さくなったように思えました。

そしてその瞬間、17年間聞こえなかったハーヴイーの聴力が、急に回復したのです。それはカイロプラクティックが誕生した瞬間でした。

*      *      *      *      *

パーマーは脊柱を矯正することによって聴覚障害が改善されたこと。そしてその後、原因不明の心臓疾患の患者を治癒させたことなどから、病気の原因は脊柱の関節間転位にあると考えて、宣伝を始めました。

この新しい治療法は、パーマーの友人であるサミュエル・ウィード牧師がギリシャ語からカイロ(手)プラクティコス(技)という言葉を選び、カイロプラクティックと命名されました。

カイロプラクティックスクール

パーマーは、“身体には自然に治癒していく力がある” という事を偶然発見しました。しかし彼は「この発見は家族だけの秘密にしよう」と考えていました。

B.J.Palmer

しかし、パーマーの息子である Bartlett Joshua Palmerバートレット ジョシュア パーマー、以下B.J)は、「この発見は世界に広めるべきだ」と進言しました。

そしてパーマーは、パーマーカイロプラクティックスクールを1897年に開校しました。これがカイロプラクティックの学校の始まりです。

カイロプラクティックの普及

パーマーの息子B.Jは、1902年に4人の生徒の一人としてパーマースクールに入りました。 現在のカイロプラクティックを、良くも悪くも彼の存在を抜きに語ることはできません。

卒業後、アイオワ州のデヴァンポートで、カイロプラクティックを普及させるために活動していましたが、無免許診療ということでアメリカ医師会からの攻撃を受けて、父ともども逮捕されてしまいました。

出所後、パーマーはB.Jに学校の権利を売り、残りの人生を過ごすことになるカリフォルニアに移りました。

B.Jは、ラジオ産業をはじめとする数々の事業、リサーチクリニックでの研究、精神病院などの開設などにも手を広げていきました。

彼は多くの本を出版し、多くの講演を行い、またカイロプラクティックの治療テーブルの販売事業も起こしました。

こうして、カイロプラクティックは全米に普及していきました。

B.Jは1930〜35年に HIO(ホールインワン)学説を確立・提唱しました。これが契機に、カイロプラクティックは分裂の歴史へ進むことになります。

多くのカイロプラクターがB.Jの元を離れ、全米各地で独自にカイロプラクティックを普及させるようになりました。

カイロプラクティックのテクニックは “大学の数” 、 “有名な治療家の数” だけ存在すると言われています。

戻るspaceこのページのトップに戻る
block